※テープを聞いて確認する必要がある。




昭和五十三年二月二十八日 朝の御理解?


 御理解第二節
 「先の世までも持って行かれ子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る。みてると云う事がない」


 信心すれば誰でも受けることが出来る。しかもみてると云う事がない。それで只あのう信心しよると云うても拝んで居ります、参って居りますと云う事ではない。金光様の御信心はね、段々おかげを頂いて信心が分かって来れば来る程御神徳が頂ける教えばあっかりなんです。ね、ですから御神徳が受けられる信心をしなければいけません。まあ信者がありましょう。ね、ここ百年余りの間に沢山の信者もできましたでしょうけれども、お徳を受けた人はほんとに少ない。ね、
 教祖様は云うならこの教えの全てが御神徳を頂く為の教えと云うてもよいくらい。それを私共が教えを忠実に行じないから只おかげだけに終わって仕舞うと云う事なんです。だからお徳の受けられる信心をしっかりしとかにゃいけません。
 昔のまあよく先生信者さん方がよく言われました。教会に例えば何か大きな御用でもしなければならない様な時はもう信者に神様がお徳を受けさせようとしてある絶好のチャンスだ機会だと云う風に教えて居られます。ですから又信者も教師もね、さあ今度の御用で一徳受けるぞと云う様な意気込みを持ったと云われて居ります。例えば御普請なんかが始まりますと今度の御普請で一徳受けようと言うて云うなら日頃出来なかった信心それこそ日頃頂いて居る信心を今こそ今度こそ真を以って表して行くそういう生き方に依ってやはりお徳を受けられたのですね。そう云う信心が日頃説かれている。只信者の と云うかみんなの痛い痒いが治りますように、どうぞ思いが成就致しますようにと云う信心から云うなら信心からいよいよ神様を信じて疑わない力が生まれて来る。ね、いよいよ真心になって来る、いよいよ神心にもなっていくと云うことにならなければならんのです。
 今あのう久富繁雄さんとこの奥さんがここへ見えてから主人が怪我しとります、自転車で何時も田圃の中を近いから横切って見えるわけです。もうあちらも田圃道ですけれども殆どアスファルトになってよくなった。ところが今日風が吹く、ひどかったでしょう。だから風でその吹き倒されて居られる訳です。ね、それでそのいやっと云う程そのコンクリと云うかアスファルトの上に顔ばぶっ付けて背中もここなんか痛いと、顔はちょっとかすり傷程度ですけれどもね、信心しよってお参りしよってどうしたこつじゃろうかと云うたらおかげはそれまでのおかげです。ね、ですからね、そんこんところがです、ね、なら私は今日はあのう繁雄さんのことを一応お届けさせて頂きよったら御理解二節を頂いたんですよ。ははあ御神徳を受けると云うことはこげん時におかげを頂いた、又は大難を小難でおかげ頂いたと云う生き方がお徳を受けるんだと思うんですね。ね、信心の薄い者は例えば  は信心が薄いです。爺ちゃんなお参りしよってから怪我でもしてからとこういう言い方をしたらもうそれでおしまいです。ね、えてしてそういう風に思うたり言うたりするもんです。けどもなら爺っちゃまなの方がおかげ頂いたと云う事になりゃ爺っちゃまもおかげ頂く。おかげ頂くだけじゃない、そういう時にお徳を受けるのです。力を受けるんです。ね、ですから口だけじゃない心からそれが思えねばならないというところにです、日頃信心がでけたいわゆる神様を信ずる力がいよいよでけとかなければならないと云う事になります。ね、ですからお互いがね、お徳が受けられると云う時にです、ね、お徳を向こうに追いやる様なことを言うたり思うたりする。
 これは私が北京から帰った間もなくでしたけれども、まあだ今のように車がありませんでしたが私はお参りから帰って来てちょっとこう線路端ですかね椛目の、腰掛けとったら若先生がまだ幾つくらいだったでしょうかまだ子供の時でしたから大きな重荷用の自転車が走って来ておるところにほん私が腰掛けとる目の前でね、あのこう縦敷に敷いて行ったんです。ね、こう敷いて行った。私もすぐ表へ飛び出してあの行ってから、隣の原口さんと云う伯父さんが居られましたがもうその重荷用の自転車ばあの握ってから放しなさらん。それがまた怪我でもしとるなら薬代でもお見舞いでもいっちょ貰うてやろうと云うような親切からでもありましょうけれどもね、私はその瞬間ねおかげ頂いたと思うたです。どうもすみません早う行って下さいとこう言うたらもんですから原口さんがえらい腹をかきなさった。折角自分が捕まえてやっとるとに帰してしもうてからとおかげで別に何ともしとりませんでしたけれどもです、ね、そういう時にね、薬代でも取ろうかこれ捕まえとってちょいとま怪我でもしとるならちょっと医者に連れて行ってから見て貰うてからとそげなことどん云うごとあることじゃったら絶対お徳は受けられんですが。そりゃ成程怪我したら薬代でも貰われるかも知れん。ね、そりゃ薬代のいちょお見舞いのいっちょも貰われるかも知れん。そげな汚か心じゃ絶対お徳は頂かれん。もうほんなこと自分の子供がご迷惑かけたつじゃけんああた、前ば一生懸命走っているのに子供がキョロキョロしよるけん敷かれた。すみません、ご迷惑かけましたどうぞ早う行って下さい、どげな怪我しとるか分からん実際は、私が目の前で縦しに敷いて行った。ね、あのねだからもう瞬間に決まるんですお徳を受ける力を受けると云うのは。ね、ですから日頃しっかり神様を信じる力と云うものを頂いておかなければいよいよお徳の受けられる絶好の機会を頂いておってそこをしだごだにして只おかげだけで終わって仕舞うと云う信者が如何に多いかと云うことが分かります。
 信心すれば誰でもお徳が受けられると仰るのにそういうお徳を受けられるチャンスは沢山あったろうにも拘らずそれをお徳にしきらずに只おかげだけでしまえてしもうていると云うことで有ります。 日頃いわゆる真心ね、その真心と云うのが小さい真心よりも大きな真心が使えた時に初めてお徳を受ける。ね、例えば御普請でも始まるね、神様にお願いをする、とても今の自分にはそげなこと出来そうにも無いけれどもね、例えて云うならば文夫先生がねこの御造営が始まる時ですから十年前の話です。その当時ほんとやっとかっとまあお商売さして頂きよったんですけれども神様にお願いをした。どうぞね、それこそ御造営が済む迄出来んならばそれが五年掛かっても十年かかってでも百万円のお供えをどうでもしたいとお願いした。おかげを頂いた。はあここが出来上がってしまうときにはみんなお供えしてしもうた。と、云う様に特別のおかげも頂いた。ところが今言うでしょうが先生が、私は百万円だけには苦労はせんと。私はもうほんとに大胆な表現といやあ大胆な表現ですよね、神様を確信しとるからそれが言えれるです。この人うだごとばっかり言わっしゃると云うたらそげふうに聞こえるです。ね、だから何時もどんな場合でも百万円だけには不自由せん、それこそ「使うて減らぬ金百両」と云うお徳を受けたと云うことになるでしょうが。ね、無条件、一生懸命、真心一杯、とてもその時分なら文夫さんの商売で百万円てんなんてんもう夢の様な話であった。けれども願うた。その真心に神様が感応ましました。五年かかっても十年かかってもと思うて居ったのがもう御普請が終わる前には全部お供えして仕舞う程しのおかげを頂いた。おかげを頂いたと云うだけでも有難いけれども以来百万円だけには不自由しませんと言うです。ね、「使うて減らぬ金百両」のお徳を受けた訳です。ね、それと悪いことしよるならほんなお供えし損になって仕舞う。お徳を受けると云う時にはね、何時もはない。皆さんどうでもね、お徳を受けなければね人間の幸せは絶対有り得ないです。お徳を受けるとね、どんな心配な事であっても教祖が仰る様に「徳の無い間は心配をする。徳を受ければ心配はない」と仰る。心配のない安心の喜びの生活が出来る。こんな素晴らしいことないです。その徳が、その光があの世にも持って行け持って行けたその光に依って光明世界に住むことが出来る。そしてこの世にも遺しておけると云う程しの素晴らしいものが御神徳なのです。ね、ええですか今日私は神人、信心を語りよるとですよ。先ず神様が信じなければね、例えばあの繁雄さんとこの嫁御がそれば聞いちから笑うかも知れません。「爺っちゃまた金光様金光様言うちから怪我どもしてから」そげなこと口で言わんでから心で笑うでしょうね、違わん。その程度の嫁御ですから神様に対してだけは。ね、ところが爺っちゃまの方は大難を小難でおかげを頂いた、おかげを頂く者お徳を受ける者の違いがそこにあるのです。信心して居ってもです、信心して居るのにどうしてこんな事がと云うたんではもうお徳になりません。ね、今日はそのお徳を受けるか受けないと云うあのうまあね云うなら瀬戸際の様な話です。ですからね、なら今度は  があったちゃおかげ頂こうと云うとったちゃねなかなかでけん。やはり神様を信じて疑わない、どう云う風に信じるかと云うと、一切が神愛だと信ずるんです。それこそ憎うてこの手が当てられようかと云う親心なんです。ね、一切が神様が氏子信心してお徳を受けて呉れよと云う神願の現れが痛いことになったり痒いことになったり損をする事になったりするのです。だから痛い思いをしただけ、ね、損な思いをしただけではこんな詰まらん話は無いです。そういう時に力を得る、徳を受ける、光を頂く。ね、一切が神愛と分かる時にです、お礼を申し上げねば居られん事ばっかり、それは取り返しの付かない様な事であってもその頂き方一つでお徳になるのです。ね、だからいよいよ以って神様の働きの中には決して撫でさすりする様な働きばかりではない。場合には叩かれる様なこともある。損さしなさる事もある。けれどもそういう様々な事の中に神愛と悟らせて貰い分からせて貰うてそれこそ成行きをいよいよ尊び大事にして行くと云う生き方が身に付いてくる時にね信じる心はいよいよ生まれて来る。ね、それにお応えをする真心を出さなければ居られないことになって来る。真心の信心がでけて来るようになる。
 次には神心。ね、私共の信心はどこまでもね、云うならば神心を目指す。生神金光大神を目指す。ね、金光教の信者さんがみんな目的は生神金光大神でなからにゃならん。生神金光大神の境地と云うのはもう丸い手鞠に喜び一杯書いた様なものである。どちらへ転がしても喜びしか出てこんと云うそういう意味でやっぱり阿倍野の先生あたりは生神金光大神の神格を受けてとんなさるだろうと思う。ねえ、どちらへ転んでも喜びしか出てこない。稽古ではそんな稽古が出来るんです。その事に取り組んで稽古しなかったら百年経っったって駄目です。只拝むことだ。
 私は昨日お風呂に入っとってから頂いたことなんですけれども拝むと云うことは拝むと云うことぞと、おは「於」ということのおですね、何々会場に於てと書くでしょうあのおです。それからがはね、「我」むと云うことは「無い」ね、私は風呂に入ったらもう第一風呂桶を拝む石鹸も拝む。勿論風呂に入る時にはお湯の水三遍も私しゃ押し頂いて入ります。天の神様地の神様生神金光大神様と云うて頂きます。もう絶対損なせんです。もう拝むことの素晴らしいこと、ね、もうなんでん拝まにゃいかんです。主人は家内を拝まにゃいかん、家内は主人を拝み主人は家内を拝む。親は子を子は親を、お客様を拝む、ね、それこそ水一すくいでも米一粒でも押し頂いて拝む。もう信心とはね私は拝むことだと思うです。不思議にね拝んで居る時には我がないです。不思議です。それも拝みようがね只あの神様どうぞどうぞと云うて拝むとと云うとは別ですけどね。水を押し頂いて拝む時にはもうね我はないです。自分で思うてみて下さい。ああ勿体ないと拝む時にはもう自分の我はないです。成程拝むと云う事は拝むの内容がなからにゃいかん。ね、我が無いことに於てとなる訳です。ね、はぁこりゃどうでんこうでん於我無ことば大いに宣伝しなきゃならない。そして拝むことがなんか程度が低いように云う人達がある人達にも分からせにゃいかん。拝む時こそ私共に我がない時だと云うことなんです。その我がない世界が段々広がって行くことが生神金光大神の世界が広がって行くことなんです。ね、我があると喜びが湧きません。我が無くなると段々何を見ても聞いても嬉しいことであり有難いことになってきます。 昨日私自分ながら恥ずかしい事だなと思ったんですけれども、昨日は日田の綾部さんところの御主人の式年祭がございました。前々からお届けがしてありました。私が行くことになっとった。それで朝から先生方準備に二人先に行って後で迎えに車が来ることになっていましたからもう時間には着物を着てから待っていた。したら迎えにきた。で、食堂まで出てきた時に急にお腹がぐちゅぐちゅする。しかも段々ひどくなる。こりゃちいとあの迎えにきとると待たせておって呉れ、このまま車に中ででもせくならどんこんされんけん、車の中には毛布かなんか入れといていきがけ寝て行くかも知れんけんと言うてまた私は部屋に帰って袴羽織を取ってからまたちょっと休ませて貰うた。ところがますます痛む。丁度久富先生が見えとったからもうそれこそ一生懸命その揉んで貰ったばってんちょっとやそっとで治りそうにない。もうあの家内が申します、真青になってからもうほんとにどういう事じゃろうかと言うごたることじゃった。ほんなあっと云う間でした。それからもうとうとうあの若先生に代わりにやって呉れと云うてやりました。そして行ってから出たと思うてからもう十分か二十分かしたらケロッと治まってしもうた。神様の御都合に違いはないと思うてね、神様にお礼やらお詫びやら申させて頂きよりましたらね、神様から釣り針を頂くんです。釣り魚の釣り針、そして神様から餌に釣られると頂いた。もう私はほんとにねあのうほんとに恥ずかしいことだと思いました。もう自分の心にはもうそげな心は未塵もないと思うておったのにも拘らずあった訳です。ね、私が参りますと参ることになりますと親先生があれも好きだからこれも好きだからとりわけ私がああたかたに行くと鰻の刺身が食べられるです。私が川魚好かんけれど鰻のお刺身だけは大変大好物なんです。もうそげんとが待っとう。と云う様なものが私の心のどこかにあったんです。ね、例えばんならこれはもうほんとに取分け取次者が心がけなければならんこと。お酒飲む人は今日は何処何処の大祭で今日は飲まれると思うてからお祭り仕える。今日は何処何処で一献飲まれることが楽しみでお祭りに行く。神様よりか飲まれることを楽しみで行くごとあることではおかげ頂かれんと私は何時も云い思いもしとりますけれどもそういうて居る私の心の中にやっぱあったと云うことなんです。ね、人間の心にはそういう汚い心がある。今日綾部さん所でね、まあ今日親戚沢山集まって沢山のおご馳走がしてあるだろうと、まあ多く食べようと思いもせんし何と云うでしょうかねえ、鰻の刺身が食べたいと思いもしなかったけれども厳密に云うとやっぱあったと云うことでしょうね。神様餌に釣られて行くようなことでは、釣られて仕舞う、危ない。もうほんとに昨日からお詫びばっかりさせて頂く。不思議にお詫びを一生懸命させて貰いよりますとね、自分の心の中の思いもかけない汚いものまでが取れて行くです。ね、そういう意味でお詫びは大変大事です。自分と云うものを見極めた時に初めてお詫びの心と云うものが起こって来るですね。自分の心の中にはもう限りないお詫びせねばならん様な心が一杯有ります。若先生おかげ頂いて帰って参りました。そして私にこんな大きな器にいっぱい鰻の刺身を持って帰った。ところがもう御飯の済んだ後じゃけん食べられん。(笑い)ね、神様は皮肉と云やあ皮肉ですけれどもね、ほんとな事を分からせようとしてのそれなんです。ここ辺になってくるとですね、もう神心です。神心に入っていっとるとです。人間だからこんぐらいの心があったっちゃよかと他のもんなら許されたでしょうね。ところがいわゆる神心に一生懸命精進しとる私にもう神様は許されなかった。ね、云うならば人間の汚さ、汚いものが心の中にあって神心に云うなら生神金光大神になれると云うことは出来ません。信心、神心、深甚ね、信ずる心からいわゆる真心からねおかげを頂くのです。信じる心で神様へ向かう。それはどういう事があっても信ずる心を持って向かう。神は向かう倍力の徳を授けて下さる。その上真心一杯、ね、そこに云うなら使うて減らぬ金百両と云った様なお徳が受けられる。いよいよ神心、自分の心を厳密に云うならば顕微鏡で覗く様な気持ちで自分の心を覗いて見ると、あるある汚い心が一杯有る。ね、自分の心を顕微鏡で眺めるような気持ちで私は精進させて頂くことが神に向かって精進して行く者の姿だと云う風に思います。 今日私が皆さんに聞いて頂いた様なところを皆さんが信心の上に自分のものにしようと云う精進をなさるならですね、それこそ信心すれば誰でもお徳が受けられるとね、神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る。しかもみてると云うことが無いと云う程しのおかげが頂かれるんですよね。どうぞ。